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渡辺 悌二
Teiji Watanabe
1959年生まれ。
北海道大学大学院地球環境科学研究院 地球圏科学部門陸域環境ダイナミクス分野・准教授
環境科学院・地球圏科学専攻 陸圏環境科学コース・准教授
カラコルム山脈の位置
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パミール高原の位置
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バックナンバー
第1回
カラコルムの山と人(1)
第2回
カラコルムの山と人(2)
第3回
カラコルムの山と人(3)
第4回
カラコルムの山と人(4)
第5回
パミール(1)
パミール高原は「高原」ではない?
第6回
パミール(2)
強くてやさしいパミールの人たち
第7回
パミール(3)
タジク国立公園
第8回
パミール(4)
キルギス南部のパミールの環境問題
第9回
ヒマラヤ(1)
ヒマラヤとネパール
第10回
ヒマラヤ(2)
ヒマラヤの氷河湖調査
第11回
ヒマラヤ(3)
イムジャ氷河湖をめぐる問題
第12回
ヒマラヤ(4)
カンチェンジュンガでの調査
第13回
ヒマラヤ(5)
観光に依存するヒマラヤの環境問題
第14回
スイス・アルプス(1)
スイス・チーズとヒマラヤのチーズ
第15回
スイス・アルプス(2)
スイス国立公園(前編)
第16回
スイス・アルプス(3)
スイス国立公園(後編)
最終回
スイス・アルプス(4)
世界自然遺産サン・ジョルジョ山

地球環境のいま 〜現地からの報告〜

シクロケムの目指す「地球環境とヒトと和の共存」を、氷河・永久凍土など山岳資源の持続的利用と管理、地質、気象の研究というかたちで追求する渡辺悌二氏。現地調査でみえてきた高山の現状とそこで生きる人々の姿から、地球環境の「いま」をお伝えします。

第11回 ヒマラヤ(3)イムジャ氷河湖をめぐる問題

ネパール・ヒマラヤには2,300以上もの氷河湖があるといわれています。これは3,000平方メートル以上の面積の湖だけに限定した場合の数ですから,もっと小さな氷河湖を含めるとものすごい数の氷河湖が存在していることになります。以前,このコラムの中で書いたように,エベレスト山の南側に位置するイムジャ氷河湖(写真1)は,ヒマラヤの数ある氷河湖の中でも最も頻繁にマスメディアに取り上げられていて,いちばん危険な氷河湖だと考えられています。この点で,イムジャ氷河湖は最も有名な氷河湖だといえるでしょう。

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写真1: 北側からみたイムジャ氷河湖の全景(1994年撮影)

なぜこの湖がそれほど有名になったのかについては,いくつかの理由があります。まず,エベレスト山の南にあってアプローチが簡単なこと,下流域がエベレスト街道と呼ばれるトレッキングが盛んな地域であること,この地域が国立公園の指定ならびに世界自然遺産の登録をうけていること,これらの条件が整っていることからマスメディアにとっても魅力が大きいこと,などがあげられるでしょう。この2〜3年の間に,日本でもほとんどのキー・テレビ局がイムジャ氷河湖を何らかの形で番組の中で取り上げていますし,登山家の野口 健さんのようにこの湖の決壊問題の重要性を啓発している人たちもいます。また,多くの国ぐにの研究者がこの湖を調査していますが,名古屋大学の藤田耕史さん・坂井亜規子さんをはじめ,さまざまな分野の日本人研究者もイムジャ氷河湖を調査対象地としています。

私がこの湖をはじめて知ったのは,1986年にアメリカの大学院に入学した時のことでした。当時の指導教授の研究室で,1984年にナショナルジオグラフィック社が撮影した航空写真をみた時のことです。モノクロ写真の中央付近に写っていたその湖がものすごく神秘的で「行ってみたい」と思ったことをいまでも良く覚えています。

実際に現地にはじめて行ったのは1988年になってからのことでした。イムジャ氷河湖は,1950年代には小さな池に過ぎませんでした。それがわずか50〜60年間で幅約650メートル,長さ約2,000メートル,面積約1平方キロメートルにも達する巨大な湖になりました。

イムジャ氷河湖の面積の拡大は,1990年代後半ころからスピードを増しています。最近は特に上流側で写真2に見られるような氷壁が崩れて,湖が上流側に拡大していることがわかってきました。

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写真2: 南側からみたイムジャ氷河湖の上流側(東側)のようす。高さ30〜40メートルの氷壁が次々と崩れて,その結果,イムジャ氷河湖が大きくなっていく(2009年撮影)。

逆に,イムジャ氷河湖は,最近は下流側(西側)にはあまり大きくなっていません。下流側に向かって湖が急速に拡大すると,湖の水を支えているモレーン(かつて氷河が前進した時にできた土砂の土手)に湖岸線が近づき,やがて湖岸線がモレーンに接するようになります。こうなると決壊洪水の危険性が高まります。上流側に湖が拡大しても,直接的には決壊洪水につながるわけではありません。下流側に向かって湖が急速に拡大していないのは,安全面からは良いことで,イムジャ氷河湖は多くのマスメディアが世界中に伝えているのとは違って,それほど危険ではないのです。

いつも氷河湖は,決壊洪水を引き起こすだけの厄介者として扱われています。しかし,いま,この氷河湖を利用してしまおうというアイディアが持ちあがっています。写真3の右に写っているのはアメリカ人共同研究者です。彼は,南米アンデス山脈の氷河湖決壊洪水についての調査経験が豊富です。アンデスでは氷河湖の危険性を小さくするために排水を行い,その際に排出した水を小型水力発電に利用しています。これまでに,彼はこうした事例をいくつもみてきました。ネパール・ヒマラヤでも,アンデスの経験を活かせないかというアイディアです。イムジャ氷河湖で外国人研究者グループの調査の手伝いを何度もしてきた地元住民代表は,このアイディアに大きな興味を示していました。

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写真3: ディンボチェ村での住民代表との話し合い(撮影:澤柿教伸)

イムジャ氷河湖がそれほど危険でないというのは,いま現在,ただちに決壊する危険性が低いという意味であって,決して長い将来にわたって危険ではないということではありません。特に湖が下流側(西側)に向かって拡大するようになると危険性が増しますが,この先,いつ下流側に向かって湖が拡大しはじめるのかはわからないのです。

こうした情報を最もたくさん持っているのは,おそらく地元の住民たちではなく,海外に住む研究者たちでしょう。しかし研究者はというと,調査期間も予算もギリギリのことが多く,なかなか住民に対してきちんとした説明をする機会を設けることはできません。断片的に伝わる情報は,しばしば間違って住民やトレッカーに伝わります。住民にそうした情報が伝わると,彼らは絶えず不要な不安を抱きながら生活を続けねばならなくなります。

残念なことですが,実際にイムジャ氷河湖の下流域に住んでいる人たちに,不十分な情報や誤った情報が伝わっています。この原因の一つとして,研究者が適切な対応をとってこなかったことがあげられるでしょう。しかしもっと大きな原因はマスメディアの対応にあると思います。いまやインターネットがこの地域にも入り込み,住民たちは海外のマスメディアが発信した情報を入手できるようになっています。世界の研究者やマスメディアらは,本当の氷河湖決壊災害が発生する前に,地元住民に不必要な“メンタル災害”を与えることになりかねません。たとえば,2007年にクムジュン村とクンデ村で発生した土石流でさえ,「氷河湖決壊洪水発生」として世界に配信されているのだそうです(写真4)。

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写真4: 集中豪雨によって2007年7月にクムジュン村とクンデ村に流れ出した土石流の跡。発生源である背後の山(標高5200m)には氷河も湖もないため,氷河湖決壊洪水の発生はあり得ない。