スイス・アルプス(1)スイス・チーズとヒマラヤのチーズ
スイスといえば時計,チーズ,それにアルプスを思い浮かべる人が多いことでしょう。スイス・アルプスとのつきあいが始まった1994年の12月,首都ベルンの郊外に10ヶ月間住むことになりました。ベルンの郊外といっても,ベルンとルツェルンの間にあるエメの谷にある、ブライトマットという小さな村のはずれです。世界的に有名なエメンタール・チーズの産地という方が皆さんにはおなじみかもしれません。
30軒ほどの住居しかない村のはずれの建物に住むことになって最初に驚いたことは,そんな小さな集落でさえチーズ工場があったことです。チーズ工場には,毎日,村の酪農家から搾りたてのミルクが届きます(写真1)。自動車で運ばれてくるミルクもあれば,写真のように馬車で運ばれてくるミルクもあります。
工場といっても一つの家族が経営している小さなもので,作られたチーズはそこで販売されています。さまざまなチーズがありましたが,お気に入りはもちろんエメンタール・チーズです。チーズ工場から家までは400メートルほどで,歩いてもあっという間の距離なのに,買ったばかりのチーズを家に着くまでに全部食べてしまうこともしばしばでした。
日本のデパ地下でも簡単に購入できるスイス・チーズは,ネパール・ヒマラヤでもよく知られています。ネパール・ヒマラヤにはスイス方式で作るチーズ工場があるのです(写真2)。ただし,ネパール・ヒマラヤではヤクのミルクを使ったヤク・チーズを作ります。
チーズ作りの工程はひじょうにおもしろく,何時間見ていても飽きません。そこでは,電気さえないため,アルプスで古くからある昔ながらの作り方を踏襲しています。スイスでも伝統的なチーズ作りの様子を観光客に見せるツアーがあるそうですが,ネパール・ヒマラヤでチーズ作りを観光客に見せれば,地元にとっても収入源になるのではないかと思います。
ネパール・ヒマラヤでチーズ作りがはじまったのは1952年のことで,ヒマラヤに住む貧困な人たちへのスイスとFAO(国際連合食糧農業機関)の援助がきっかけです。1993年までは国営工場しかありませんでしたが,1994年時点で9つの国営工場に加えて8つの私営工場ができ,1996年には国営工場が6つに減って私営工場が13になりました。
海外援助でスタートしたヤク・チーズ作りですが,これが思わぬ問題を引き起こしました。チーズを作るにはミルクを温めねばなりません。そのため薪燃料が必要となり,森林伐採が進んでしまったのです。しかも,チーズ工場に売るミルクの量を増やそうとして,ヤクの飼育頭数を増やしたために,過放牧になって土壌侵食が発生するようになった地域さえあるのです(写真3)。
スイスに話を戻しましょう。スイス・チーズは都市近郊の大型工場で大量生産されるようになり,アルプスでの伝統的なチーズ作りは困難な時代に入っています。アルプスでも後継者不足が深刻な問題になっているのです。そこで,脱サラした人などをイタリアやフランスから雇って,アルプスの中で牛の面倒を見てもらう酪農家が増えています。夏の間は,牛はアルプ(Alp)と呼ばれる高山帯の放牧地で飼われます。この期間,酪農家は谷底にある自分の家で暮らし,雇用した人たちにアルプでのウシの世話を任せてしまうわけです。
大切な牛を他人に任せてしまってまで酪農家がアルプで牛を飼い続けるのには,いくつか理由があります。彼らは牛が観光にとって重要な存在であることを理解しています(写真4)。都会からアルプスにやってくる観光客にとっては,牛は大きな魅力です。ですから,酪農家は牛を飼い続けることでアルプの草を維持し,観光地としてのアルプスを守っているのです。酪農家は,アルプで牛の放牧をやめると,草が伸びて雪崩が頻発するようになることも知っています。
夏の放牧にかつて使っていたアルプに点在している小屋の中には,もう使っていない小屋がそれなりにあります。今ではこうした小屋を観光客に開放したり(写真5),そこでバターやチーズ,ミルクを販売したり,カフェを開店したりする酪農家もいます。こうした自然との新しいつきあい方が始まり,スイス・アルプスの酪農家の後継者不足の状況は,変わりつつあるようです。この数年,酪農業に興味をもつ若者が増え始めているのだそうです。