スイス・アルプス(4)世界自然遺産サン・ジョルジョ山
国立公園に続いて,今回はもう一つの自然保護地域である世界自然遺産について考えてみます。スイスには,いくつかの世界文化・自然遺産登録地がありますが,その中で世界自然遺産に登録されている地域は2カ所あります。アレッチ氷河とサン・ジョルジョ山 (Monte San Giorgio,日本ユネスコ協会連盟のサイトではサン・ジョルジオ山)です。アレッチ氷河を訪れたことがある人が多いと思いますが,ここで紹介するのはなじみの薄いサン・ジョルジョ山です。
サン・ジョルジョ山は,スイス南部のティチーノ州,チェレーズィオ湖(ルガーノ湖)の南に位置する,標高1,097メートルの低い山です(写真1)。こんな小さな山が,なぜ世界自然遺産に登録されたのでしょう?
この山からは,およそ2億4千5百万年前~2億3千万年前の三畳紀中期の貴重な化石が豊富に産出しました。当時,ここはちょうど浅海から陸地に変わろうとしているところで,海水から汽水の環境下に生息していた動物の化石が1万点以上も産出されているのです。このことから,サン・ジョルジョ山は,古生物学的・地質学的観点でとくに重要な山として2003年7月2日に世界自然遺産に登録されました。
この山に行くには,たとえばルガーノからですと車で30~40分ほどのところにあるメリーデ村(Meride)に行き,そこから自然観察路 (Nature Path)を歩きます(写真2)。自然観察路は周回するように作られていて,メリーデ村から山頂に行き,そこから別の観察路をおりて村まで戻っても,約7キロメートルの道のりです。
メリーデにはバスあるいは自家用車で行くことになりますが,村の入口には駐車場があって,観光客はそこに車を止めなければなりません。村の中の通りは狭く(写真3),村の車しか入れないのです。人口わずか300人ほどのこの村には小さなゲストハウスが1軒だけあります。ベッドが7つの,一度に最大でも14人しか宿泊できないゲストハウスが,世界自然遺産サン・ジョルジョ山の唯一の宿泊施設です。
メリーデには,世界自然遺産博物館があります。ユネスコの世界遺産のプレートが壁にはめ込まれた,れっきとした博物館ですが,展示室は写真4に写っている一部屋だけです。ちょうど田舎の小学校の理科室くらいのスペースでしょうか。この博物館は,世界自然遺産に登録された後に作られたものではなく,もともと1973年に化石博物館として設けられたものでした。サン・ジョルジョ山から産出したほとんどの化石は,スイス(チューリッヒ)とイタリア(ミラノ)が管理をしていて,地元にはわずかにしか残っていません。博物館の中に展示する化石さえほとんどないのは驚きです。2008年8月にサン・ジョルジョ山財団ができ,ようやく博物館の改築計画が進められることになったようです。
このように,世界自然遺産の村メリーデには小さな宿泊施設が1軒と,1部屋だけの博物館があるだけです。それでもサン・ジョルジョ山は村の誇りである世界自然遺産登録地なのです。日本では,世界遺産誘致に積極的な自治体がたくさんあります。でも,その理由は何でしょう? 観光地としてのブランド名獲得が誘致の最大の理由ではないでしょうか? 一方で,サン・ジョルジョ山を抱えるメリーデ村は,観光地化を目指していません。観光客などいなくても,世界自然遺産の価値は不変だ,と考えているのでしょう。サン・ジョルジョ山は観光による影響の心配が少ない世界自然遺産の数少ない例で,観光地化の道具として世界自然遺産をとらえない姿勢は,私たち日本人がしっかりと学ぶべきことであると思います。
メリーデが自然を守ろうとしているのは,サン・ジョルジョ山がもともとスイスに100カ所以上(2005年時点)あるゲオトープ(Geotope)サイトの一つになっていることと,メリーデ一帯が景観保護の対象地になっていることと関係しています。ゲオトープの地域には,居住地,農地,保護地の区分を明確にすることが法律で決められています。日本の学校の校庭でも流行っているビオトープは,生物の生息に適した環境を備えた空間ですが,ゲオトープは地質や地形の視点から特にすぐれて重要性の高い空間です。ゲオトープとビオトープを組み合わせた空間としてエコトープという概念があって,メリーデ一帯は観光に依存せず,エコトープ保護(景観の保護)を強く打ち出しているのです。
地球環境のいま ~現地からの報告~は、今回が最終回になります。 長い間のご愛読、誠にありがとうございました。