アカデミーとインダストリー、それぞれ役割分担があるはず
複数のシクロデキストリンを使って、抗原抗体反応モデルとしての分子インプリティングの実現に取り組む
寺尾:小宮山先生が手掛ける最近のシクロデキストリンの研究について簡単にお聞かせください。
小宮山:前にもお話したように、僕は、ベンダー教授のもとで人工酵素の研究をすることからシクロデキストリンとの関わりが始まっています。しかし、そのうち、(持ち前の生意気が顔を覗かせて)シクロデキストリンの水酸基に酵素のまねをさせることに飽き足らなくなりました。同じことをするなら、人工酵素は選択性でも活性でも天然酵素にはかなわないわけです。それで、天然酵素にできないことをやりたいと考えるようになりました。その結果、シクロデキストリンを単独の分子として使うのではなく、複数を一緒に使って、抗原抗体反応モデルとしての分子インプリティングの実現させることに取り組むことにしたのです。しくみは簡単です。シクロデキストリン分子とシクロデキストリン分子をかためて、つまり重合させて ―僕は本来、ポリマー・ケミストですから自然に出る発想です― そこに、認識させたい分子(鋳型分子)を被せて型をつくります。それから中身の鋳型分子をはずしても、刷り込み現象が働いて、中身のことを覚えているだろうというわけです。このとき、鋳型分子がタンパク質であれば、人工の抗体ができるというわけです。
寺尾:いってみれば、秋葉原で鋳型からフィギアがつくられていくようなものと考えられますね(笑)。
小宮山:秋葉原が出るところが、寺尾先生の若さの証しですね。僕の場合は、たとえるならば、夜店で売られていた般若のお面の型です。この般若のお面の型に金粉をまぶしてから粘土を詰めて、それを型から抜くと、たちまち金の般若の面ができるというわけです。
寺尾:ともあれ、抗原抗体反応モデルとしての分子インプリティングが実用の世界で生かされる日もそう遠くないかも知れませんね。
小宮山:いまでは産学協同がごく普通のこととして馴染んでいますが、振り返ると、僕らは大変な時代を過ごしてきたとつくづく思います。僕が学問を志した頃はまだ、純粋学問と産業ははっきり遊離していて、アカデミアの人間が企業の研究に関与しようものならたちまち白い目で見られました。それが社会の要請に応えるカタチで180度転換し、産学協同に組しない者はすぐに去れという時代を迎えることになったのです。
寺尾:東大でも『アドバンスドソフトマテリアル』という会社を起業し、自分たちの研究を生かして企業活動を行なう、いわゆるベンチャービジネスを展開していますよね。
小宮山:僕は日本の将来にとって、大学は本来の大学の在りように戻った方がいいと考えています。もちろん、以前のように大学が象牙の塔になるのは問題ですけど、産業の世界に足を突っ込み過ぎるのにもいささか疑問を感じています。産業界のことも広い目をもって視野に入れつつ、学問の基礎を構築することに心血を注ぐといった姿をよしとするのですが。アカデミーとインダストリー、それぞれ役割分担があるはずで、要はバランスでしょうね。現実には、寺尾先生のように両方に精通している人というのは少ないですから。
寺尾:対象とする物質の物性を純粋に研究していくというのも面白いだろうと思うことがあります。企業側の人間としては、そうした研究成果をシンポジウムなどで知ることで、産業にどう活用していけるだろうかと考えることにつながり、大変刺激を受けます。研究者が製造の範囲までカバーしてしまうと、その応用開発まで実現する能力に感心はしても、それはそこで終わっていることになります。
日本の科学技術を進歩させるためには子ども達に科学への憧れを喚起することが重要
小宮山:僕はアカデミアに何となく憧れて、いまの道を歩むことになりました。子ども達にアカデミーの分野に入ってきてほしければ、やはり、科学は面白いということを知ってもらうのがいちばんだと思います。僕の子ども時代、胸をときめかせてくれたのは人工衛星でした。ちょうど10歳のときに、旧ソ連が世界で初めてスプートニクを、次いでライカ犬を乗せて打ち上げました。14歳のときには、旧ソ連のガガーリン空軍少佐が地球を一周し、宇宙飛行士第1号として脚光を浴びており、ホント、未知なる宇宙に夢を馳せたものです。
寺尾:そうですよね。私も、日本の科学技術を進歩させるために、まずは子どもたちに科学への憧れを喚起することが重要なことだと思います。
小宮山: もうひとつ、子ども達に科学に魅力をもってもらうには、アカデミアに携わる人間が楽しげに仕事をしている姿をみてもらうことも大事だと思います。ノルマに追われて報告書を書くのにきゅうきゅうとしているような研究者の様子をみては、子ども達が憧れるはずがありません。さらに、僕はぜひ、このことをいいたいのですが、大学の建物がキレイでなければダメだと思います。中・高校生が大学を訪れて、あまりに古くて汚ければ、ここで働きたいとは思わないでしょう。文科省が費用を惜しまず、一気に大学をキレイに改築してくれてもいいと思うのですけどね。
寺尾:そういわれると僕が客員教授をやっています東京農工大学もあまりキレイとはいえませんね。古い建物がそのまま残っているのは、いまや大学ぐらいということでしょうかね。
小宮山:外側はクラシックでも、少なくても、中に入ったらモダンでキレイであってほしいですね。海外に行っても、僕が訪ねるのが有名大学に限られているせいもあるかも知れませんが、建物のデザインにこだわっているところが多く、僕自身、そんな快適なところで働いてみたいとよく思います。
寺尾:いまの学生は研究室に残ることにあまり魅力を感じなくなっているのでしょうか。
小宮山:いいポジョンがあれば、そこに行きたいと思わないわけではありません。しかし、私の若いときのように、ポジションがあるのかないのか不確かな状況では、残る可能性は低いでしょうね。世の中がみえているというか、安定指向が強いというか、高収入や安定性が約束されている大手企業の研究室などを希望する学生が多いというのが実情です。
寺尾:私の会社は規模が小さいせいか、研究員たちは、どこかの企業を経由してから来ているケースがほとんどです。
小宮山:好条件に引かれて大手の企業に入ったものの、2~3年が過ぎる頃になると、自分が本当にやりたいことに目覚めたり、自分を本当に生かせるところはどこだろうと考えるようになったりするようです。それで、この時期に転職する人間が結構、多くみられます。そうした転職組が、寺尾先生のところに行っているということでしょうね。
寺尾:私の場合を思い返してみると、希望すれば、地方の大学に助手のポジションもあったのですが、そのアカデミーの道は選ばず、当時、酸化剤として空気を使うという画期的な方法で有名なワッカー法を開発したワッカーケミー社ミュンヘン本社に行った方が面白いだろうとインダストリーの世界に進みました。2年目に『ワッカーケミカルズイーストアジア(株)』に移り、その14年後の2002年、『ワッカーケミー社』の日本総代理店である、『(株)シクロケム』を設立しました。この年、『ワッカーケミー社』が日本法人を終わらせ、各事業部を独立させるに当たり、私に、シクロデキストリン事業を含むファインケミカル部門を引き受けないかという申し出があり、それを受諾したというのが会社設立のいきさつです。いま、シクロデキストリンを中心に、自分のやりたいことがやれてますから、独立・起業して正解だったのだろうと思っています。
小宮山:現在、日本シクロデキストリン学会の会員の構成は、アカデミーとインダストリー関係の比率が6対4、もしくは7対3ぐらいではないでしょうか。アカデミアの人がこれだけ多いということは、それだけ研究費が出され、研究・開発が盛んに行なわれていることにほかなりません。シクロデキストリンはまさにこれから、大きく花開くことが期待できる物質といえます。
寺尾:α、β、γ、3種のシクロデキストリンを選択的に工場で大量生産できるようになったのは1999年。21世紀とともに、その研究・開発が本格的に幕開けしたようなもので、世界各国の注目を集めるとともに、今後ますます楽しみなのがシクロデキストリンです。では、明るい未来が展望できたところで、対談を終わりにさせていただくことにします。本日はどうもありがとうございました。
終わりに
小宮山:シクロデキストリンは簡単に手に入り、安く、毒にならず、そして何かの機能性が現出する可能性があるわけで、まさにこれから大きく花開くことができる分野といえるでしょう
寺尾:「日本がシクロデキストリンの工場生産に成功したとき、企業の研究員らが意欲的に使い、シクロデキストリンを利用するアイデアがたくさん生み出されています。これらのアイデアの宝庫にも注目し、画期的な開発に結び付けてほしいと思います