株式会社シクロケム
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高分子とシクロデキストリンの遭遇(1)

高分子化学と低分子化学、それぞれを専門とするふたりが語り合いました。

ゲストにお迎えしたのは、(株)日本触媒では常務取締役研究本部統括兼開発本部長、日宝化学(株)では取締役社長、取締役相談役を務め、ビジネスの中枢で活躍されていた椿本恒雄さんです。紙おむつに使用する高吸水性ポリマーなどを開発した高分子化学の研究者としても知られます。一方、寺尾社長は有機合成化学(あえて言えば、低分子化学)を専門とする研究者でもあります。今回は、ふたりが出会うことになったヨード&シクロデキストリンの話にはじまり、椿本さんの研究生活前半のお仕事ぶりを中心に振り返っていただきました。企業には努力賞はなく、成果を上げなくてはならないという厳しさがジワジワと伝わりました。

2009年5月掲載(この記事の内容は取材当時の情報です。)

椿本 恒雄さん

元・日宝化学(株)取締役社長

'35年奈良県生まれ。'58年大阪大学応用化学科卒業後、日本触媒化学工業(株)(現・(株)日本触媒)に入社、研究所に配属され、高分子の研究に従事する。'93年(株)日本触媒(常務取締役研究本部統括兼開発本部長)を退社。在職中、出願した特許は高吸水性ポリマー関係をはじめとして200件を超える。同年、(株)日本触媒の子会社である日宝化学(株)の取締役社長に就任、'00年取締役相談役を経て、'02年退社。現在、(株)シクロケム顧問。趣味はモノづくりで、作品にバイオリンのミニチュア、ナイフ、パイプ、ゴルフのパターなどがある。

寺尾啓二

(株)シクロケム代表取締役 工学博士 

'86年京都大学院工学研究科博士課程修了。京都大学工学博士号取得。専門は勇気合成化学。ドイツワッカーケミー社ミュンヘン本社、ワッカーケミカルズイーストアジア(株)勤務を経て、'02年(株)シクロケム設立、代表取締役に就任。東京農工大学客員教授、日本シクロデキストリン学会理事、日本シクロデキストリン工業副会長などを兼任。趣味はテニス。

ヨードとシクロデキストリンの合体の話が出会いのきっかけ

寺尾:椿本さんとの出会いはいまからおよそ10年前で、当時、椿本さんは日宝化学(株)の社長、私はワッカーケミカルズイーストアジア(株)に籍を置いていました。日宝化学の主要製品のひとつであるヨードと、ワッカーケミカルズイーストアジアが手掛けるシクロデキストリンを合体させる話でかかわりをもつことになったのです。

椿本:日宝化学はヨード事業、青酸事業、臭素事業を3本柱にしていました。ヨード事業では、有機、無機の各種誘導品にも力を入れていた背景があり、このヨードとシクロデキストリンの話にも即、ゴーサインを出した記憶があります。

寺尾:ヨードは一般に、その抗菌作用を生かしたイソジンやヨードチンキなどの主要成分として知られていますが、イソジンにしても日本で開発されたものではなく、日本発のものをつくりたいという気持ちがありました。それで、ヨードをシクロデキストリンで包接することで、ヨードの昇華性(個体から直接に気体となる、また気体から直接に個体になる現象)を抑え、安定させることに着目した製品をつくったのです。ちなみに、イソジンはポリビニルピロリドンで安定化させています。

椿本:ヨードとシクロデキストリンと有機酸を原料とするヨウ素系除菌消臭剤『アイオサーブ』として製品化され、ちゃんと日の目を見ましたね。

寺尾:私は2002年に起業して「(株)シクロケム」を設立しましたが、最近になって、新しい取り引き先との間で、ヨードとシクロデキストリンの合体を活用した消臭剤の製造・販売の話が進んでいるところです。

椿本:それはよかったですね。いまでも、研究・開発の分野にはたいへん魅力を感じています。僕の話を少しさせていただくと、日宝化学に来る前は、大学(大阪大学応用化学科)を卒業してから35年間、(株)日本触媒に在籍していて、研究畑に関与していました。在学中、大学の大先輩であり、日本触媒の創業者社長である八谷泰造社長の講演を聴く機会があり、「物事は本質をつかむことが重要であり、では化学とは何かといえば、要は触媒に尽きる。化学は触媒に始まり、触媒に終わるといっても過言ではない。そこで、自分の会社の名前も、『日本触媒化学工業(株)(現・(株)日本触媒)』とした」という話に感激しました。
というのも、それ以前に、機械工学の石谷清幹先生が講義のなかで、「技術者にとっていちばん大切なことは、本質をつかむこと、そして新しいことに挑戦するときは、それがどこから来て、どこに進もうとしているのか、その発展の歴史法則をつかんでおくことである」と指摘されたのを印象深く聞いていたものですから、これだと膝を打った次第です。そうしたいきさつや、実家の近くで就職したいといった事情から、日本触媒を希望して入社し、研究所に配属されたというわけです。

寺尾:入社後、触媒ではなく、高分子の分野に進んだのには理由があるのですか。

椿本:じつは、大学4年生の夏休みに、企業で実習することが単位に入っていて、日本触媒から呼ばれて行ったのですが、そのときに、3つのテーマのうち、いちばんラクな『不飽和ポリエステル樹脂のペーパークロマトグラフィーによる分析』を選んだことが、後々まで影響することになりました。そのときのリポートが高く評価されて、入社したら、そのまま高分子の分野に配属されることになってしまったのです。

寺尾:本意でないところからスタートしながらも、素晴らしい成果を次々に上げていったのですから、人生というのはホント、わからないものですね。


入社10年目の指令は会社の柱になる次なる製品の開発

椿本:新入社員のとき、どういうわけか、八谷社長から、「死線を超えるということについてどう思うか」と聞かれたことがあり、「わかりません」と答えたところ、「いずれ、わかるかも知れないし、わからないかも知れない。超えたときには、人生が違ってみえるものだ」といわれました。後年、“ああ、このことだったのか”と感じるときがやって来るのですが、その始まりは入社して10年近く経った1967年で、研究開発部門の最高責任者である佐久山滋専務から呼び出され、次にように告げられたのです。「日本触媒は1941年の創業以来25年間、接触気相酸化(触媒)で飯を食って来たが、この仕事ももう先が見えて来た。次の柱になる仕事が必要である。君にそれをやってもらいたい。明日から君は何をやってもよい。口は出さない。金と人は必要なだけ出す。ただし、5年以内で目途を付けてほしい」と。

寺尾:重責に耐えると見込まれたわけですね。その話に入る前に、それまではどんな研究を手掛けていたのですか。

椿本:入社して最初に与えられたテーマはホルムアルヒデヒドの重合で、当時、デュポン社が発表したものと同じものを開発することでした。約4年間の研究で、パイロットプラントの段階まで進んだのですが、最終的にはデュポン社の特許網に妨げられて断念せざるを得ませんでした。
次に与えられたテーマは、日本触媒で工業化段階にあったベンゾニトリルを用い、ジシアンヂアミドと反応させてベンゾクアナミンを合成することでした。前回、ホルムアルヒデヒドの重合で失敗しているだけに、研究所を追い出されてはなるまいと徹底的に研究し、その甲斐あって上首尾な結果を得ました。社内でも高く評価され、技術表彰も受けたのですが、販売面で、芳しい成果が上がってきませんでした。それで、八谷社長から直接、「モノができても、売れなければ何にもならんじゃないか」と注意され、ここから、売れるための技術開発に取り組むことになりました。その結果、化粧版や積層版、成形材料、塗料、そしていちばんよく売れた合板用接着剤などを開発しました。企業には努力賞はなく、成果を上げなくてならないことを痛感したものでした。このとき、一流企業からドブ板を踏んで行くような零細な会社まで、足繁く通って商談したわけですが、市場の動きというものをつぶさに知ることができ、いい勉強になりました。
こうして、ベンゾクアナミンの応用研究・開発による各種の製品が販売的にも軌道に乗ってきた頃、先に述べたように、日本触媒の将来を担うともいえる新しい指令を受けたのです。

寺尾:その指令に応えるために白羽の矢を立てたのが、アクリル酸を主体としたポリマーの開発だったということですね。

椿本:そうです。もう夜も眠れないほどのプレッシャーのなか、私がまず実践したのは、「集中」と「視野を広くもつ」ことでした。具体的にいうと、「集中」では、すでに申請されている特許をひとつ一つ調べて、”どんな化合物が、どうして利くのか”に焦点を絞り、毎日40~45枚の抄録カードをつくっていきました。一方、「視野を広くもつ」ことでは、市場の動向をつかむことでした。この研究資源の蓄積と市場の動向から、これなら当たると判断したのがまさしくアクリル酸を主体としたポリマーだったのです。

寺尾:アクリル酸自体は、日本触媒が1970年に世界で初めて、プロピレンから酸化して製造する方法を開発することに成功していますよね。研究開始当初は酸化プロピレンをつくることを目標にしていたといい、それがうまくいかず、最初の目的とは違うアクリル酸ができてしまったとのこと。通常であれば、それをそのままにしてしまうところ、ここが日本触媒の凄い点で、アクリル酸の有用性に気づき、アクリル酸の製造開発に成功するわけです。

椿本:当時はアクリル酸を製造するのに、アセチレンと一酸化炭素とアルコールを用いる改良レッペ法か、アクリロニトリルの加水分解が採用されていて、高価でした。これに対して、プロピレンからアクリル酸を製造する方法は画期的に安価で提供することを実現したのです。

寺尾:じつは、ワッカーケミー社の名前を世界に広めたワッカー法というのは、工業有機化学の幕開けとなった技術として有名ですが、このワッカー法の開発までの道のりにも、日本触媒と同様の逸話が残されています。ご存知のように、ワッカー法とは1957年に開発された、エチレンから酸化してアセトアルデヒドを製造する方法をいいます。研究開始当初は酸化エチレンをつくることを目標にしていたのですが、実際にはつくることができず、最初の目的とは違うアセトアルデヒドができてしまったのです。しかし、ワッカーケミー社もまた、アセトアルデヒドの重要性に気づき、アセトアルデヒド合成法(ワッカー法)を開発することになります。日本触媒とワッカーケミー社はどちらも失敗から成功を導き出す力、つまりセレンデピティ(日本では「幸運」や「運」と訳すことが多いのですが、「能力」や「力」と訳すのが妥当だと思います)をもっている会社であったため、世界的に名前が知られるようになったというわけです。

椿本:そういうことですね。

寺尾:椿本さんのアクリル酸を主体としたポリマーの研究については、次回、詳しく伺わせていただくことにします。

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